選択の積み重ねで結果に繋げる。
アスレティックトレーナー
坂井忠晴
世界の最前線で戦うトップアスリートの横には、たいていその活躍を支える一流のトレーナーが存在するものだ。2018年から錦織圭の専属トレーナーとして生活を共にしながら、身体とメンタルをケアしてきた坂井忠晴氏もその一人。日本の男子テニス界を牽引する稀代のプレイヤーを坂井氏はどのように見て、どんな方法でサポートしているのか。家族同然の関係でありながら「錦織圭は雲の上の人」と語る坂井氏に、その言葉の真意に迫った。
甘えや緩みが出ないよう緊張感のある関係を維持
2021年に開催されたオリンピックテニス競技男子シングルス。2大会連続のメダル獲得は叶わなかったものの、本来の感覚と自信を取り戻して戦う錦織圭選手の姿に、誰よりも近い場所で心を震わす人がいた。それが坂井忠晴氏。錦織選手の専属トレーナーだ。「今でも思い出すと鳥肌が立ちます。とくに1回戦で見せた素晴らしいショットの連続はまさに“神がかっていた”としか言いようがなかったです。ひじの手術をしたとは思えない動きを見て、嬉しさよりも、“どうしてそんなに動けるんだ!?”という驚きが勝ちました」“神がかっていた”という言葉が出たが、そもそも「錦織圭は神に近い存在でした」と坂井氏は振り返る。しかしその神は、日本オリンピック委員会強化スタッフの一員としてトレーナー活動を行っていた坂井氏に、専属トレーナーとしてのサポートを打診したのだ。「最初の頃はただの一人のファンとして“錦織圭だ!”と、それこそ神様に出会えたようで舞い上がっていました。初めて錦織選手の体に触れたとき、まるで野生の動物のような質のいい筋肉にほれぼれしたことはよく覚えています。ですから専属でと声をかけられたときは“自分にできるのか”と自問自答しました。ただトレーナーとしては大変に光栄なこと。この成長のチャンスを逃す手はないと、思い切って飛び込みました」
以来、練習や試合後のトリートメントはもちろん、アメリカ・フロリダ州で寝食を共にしながら公私ともにサポートを続ける坂井氏。家族同然の距離感に見えるが、意外にも「まだまだ雲の上の人だと思っています」と話す。
彼にとって動きやすい「筋肉」は誰よりも熟知しています
「彼自身は非常にフレンドリーな性格ですし、初対面の頃に比べると普通に話せるようになってはいます。ただ個人的な考えとしては、友達感覚ではいたくないなと。彼を全力でサポートするのが私のミッションなので、甘えや緩みが出ないよう、どこか緊張感のある関係でありたいと考えています」
試合中はもちろん、日々のトレーニングの間も坂井氏はずっと錦織選手に付き添い、合間、合間でトリートメントを施す。坂井氏は専属になって初めて気づいたことに、錦織選手のスケジュールの厳しさがあるという。「大会中の忙しさは想像以上でした。ウォーミングアップに練習、試合が終わったらすぐにメディアの取材が入りますから、ゆっくりとトリートメントする時間がないこともしばしば。短期間で状態を見抜き、かつ彼がもっとも動きやすい体に仕上げられるよう、“今のベスト”を瞬時に判断します」
錦織選手の体を熟知していなくては為せない技だが、坂井氏は「日々の筋肉の状態を細かくメモしています」というのだから徹底している。「あの時はこうだった、あの試合ではこうだった、と筋肉の状態をデータとして集めておき、彼が“戦いやすかった”と言っていたときのコンディションにフォーカスして整えていくイメージ。彼の体については誰よりも理解している自負があります」
短期間でのトリートメントには物理療法機器が欠かせないと坂井氏。これまでの治療でも愛用していたが、錦織選手の忙しさを知って以降、さらに積極的に活用するようになったという。
「自分は前に進んでいるか」と自問自答する日々です
グランドスラムでは4大会連続のベスト8進出となった2019年の全仏オープンで試合を見守る坂井忠晴トレーナー
「ハイボルテージや超音波はかなり使用する頻度が高いです。先ほども言った通り、スケジュールが厳しいなかでのトリートメントになることが多いので、ハイボルテージをかけている間に別の部位をみたりと効率よくケアできる点が助かっています」
必要とあれば海外遠征にも大きな圧力波治療器も持って行くというから驚きだ。「緩衝材でしっかり包んだうえ、さらに安全を期すためにまわりを洋服で固めて、スーツケースに入れて持ち運びます。大変かと聞かれればもちろん大変です。ただ彼がベストパフォーマンスを出すためにこれが必要だと判断すれば、躊躇することは一切ありません。トリートメントのメニューもそうですが、つねに“彼にとって何が最善か”を判断しながら行動しています」
何が最善かをつねに思考し、選択を続けているという坂井氏。「選択を間違えないようにするためには?」という質問に、「いくつかの選択肢を持つことです」と答える。「思い込まないことが重要。慣れてくると“こういう場合はこうだろう”と安易に答えを出してしまいがちですが、そうではなくて、どんな場面でもいくつかの選択肢を持ち、その中から最善を選ぶ。過去にはそれが正解だったとしても、本当にその答えが今の状況にフィットしているかどうかは分からないじゃないですか。成功事例は3カ月でダメになると考え、一つひとつきちんと評価することを意識しています」
今のために、未来のためにもっと英語力を伸ばしたい
今の個人の目標は「英語力のアップ」だと話す坂井氏。忙しい合間を縫ってオンラインのレッスンをずっと続けているという。この努力も当然、錦織選手にとってのさらなる「最善」に繋げるためだ。「錦織選手を支えるチームの中で日本人は僕一人なので、他のスタッフとより深くコミュニケーションを取るには英語力が必須です。とくに重要性を感じたのが手術とリハビリのために日本の病院に入院していたとき。アメリカにいるスタッフと状況を共有するためにリモートで打ち合わせを重ねていたのですが、自分の言葉で細かく伝えられないことが非常にストレスで、そこからさらにレッスンに力を入れるようになりました」
英語力の習得はもちろん“錦織選手のため”が大きな理由。しかし坂井氏はさらにその先、次のステップを見据えたときにも英語は必要だと話す。
「錦織選手のそばにいられるのも永遠ではないと理解しているので。役目を終えたら、自分の経験を次の世代に伝えたいと思っています。そしてもうひとつチャレンジしたいのが、日本の物理療法機器の素晴らしさを世界に伝えること。その際、自分の言葉で熱量を届けたいという思いもまた、英語を勉強する原動力になっています」
あまりのプロ意識の高さに圧倒されそうになるが、それを伝えると坂井氏は、「僕も人間ですから、たとえば夜遅い作業になると“やりたくない”“面倒くさい”と思いますよ、それは。ただそこで“最善か、最善じゃないか”と考えることでマインドセットをしているだけ。この言葉に助けられているのは錦織選手ではなく、僕自身なんです」と笑う。
コートの上で孤独に戦う錦織選手が、数多いるトレーナーの中からたった一人、坂井忠晴を選んだ理由が、その笑顔を見て分かった気がした。
アスレティックトレーナー
坂井忠晴
(さかいただはる)
坂井忠晴(さかい ただはる)
1981年5月10日生まれ 富山県出身
株式会社Style B 代表取締役/柔道整復師/はり・きゅう・あん摩マッサージ
指圧師/日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー/日本障がい者スポーツ
協会公認障がい者スポーツトレーナー/日本オリンピック委員会強化スタッフ
(医・科学スタッフ)
2018年より錦織圭選手の専属トレーナーとしてフロリダを拠点に世界中を転戦している。
国内滞在時は赤坂ARC Laboにて施術やエクササイズに携わる。
※2022年4月現在